考古学ブログ: Ours! 近江貝塚研究会

その事務局員が成長を目指して綴るバラエティー

考古学に活路を見出したい人のためのブログ。近江貝塚研究会は、日本で一番ゆるくてハードな考古系研究会。毎月1回の例会は参加費無料・飛び入り歓迎。近江・貝塚・縄文の枠を取り払って学び合います!

R0012261 実は科学も好き、宇宙なんか特に大好きっていう人(あるいは現代の博物館に何が必要か考えたい人)、必見です。日本一を見に来ませんか?

 6月例会で、滋賀県立琵琶湖博物館の林竜馬さんにご発表いただきました。で、その時にご紹介いただいたのがこの展示〈滋賀が誇る逸品展―宇宙からの贈り物―初の里帰り・隕石展示〉。そう、宇宙から降ってくる、あの隕石の展示。

 何が日本一かというと、その重量174kg。日本で一番重たい隕石だって。その名も〈田上隕石(もしくは隕鉄)〉!落ちてきたのは明治18年(1885年)で、落下地点は滋賀県南部にある大津市田上山中。いろいろあって、明治38年(1905年)に帝国博物館(いまの国立科学博物館)に買上げられたそうな。で、今回は約100年振りの里帰り。

場所 :琵琶湖博物館企画展示室前アトリウム
期間 :平成27(2015)年7月11()831()
観覧料:観覧無料 *常設展示は別途観覧券が必要になります。
詳しくはコチラ→ http://www.lbm.go.jp/tenji/ex_atrium/20150711_inseki.html

 で、こんな話を書いてて思い出すのは、日本人宇宙飛行士さんから聞いた大事な挿話。毛利さんだったか、若田さんだったか忘れたけれど、考古学や歴史系博物館経営にも役立ちますよ。何かって言うと、〈宇宙飛行士とお母さん〉のお話。

 どういう話かというと、日本人宇宙飛行士全員が、お母さんから大きな影響を受けていると言うこと。みんな小さい頃に、もれなくお母さんと一緒に夜空を眺め、星座や宇宙の話、宇宙飛行士の話なんかを聞いて育ったんだそうな。

 ここで毛利さんが伝えたかったことは、〈小さい頃に憧れや楽しさを伝えることの重要さ〉。微笑ましい母子の触れ合いの一幕が、後に宇宙飛行士を生み、更にたくさんお子供達に夢を与えていく!・・・前も宮野ミケ画伯や元日本マクドナルド社長の藤田田(ふじたでん)さんのお話の時にもしましたけれど、〈三つ子の魂百まで〉理論は、やっぱり実在する。俺たちは、ちびっ子に夢を与えられているか?ちょっとおかしな(=素敵な)考古ボーイや考古ガールを生み出しているか?人材不足が声高に言われているけれど、普及活動をシルバー・シニアに偏らせていないか?

 夏休みに東京・上野に毎年行くのだけれど、いつも複雑な思いに駆られる。駅を降りて2つの博物館に行く。東京国立博物館と国立科学博物館。どっちも凄いし、どっちもすばらしいと思う。トーハクが重厚かつ華麗なミツコシ・タカシマヤ路線でマダム達をもてなしてくれている一方で、カハクはいつも家族連れ、子供達で賑わっている。どちらもニーズに応えている正しい姿かも。だけど、どちらが子供の夢を再生産しているかというと一目瞭然。・・・で、いつも複雑な思いに駆られながら家路につく。

 役割分担があるからね。トーハクはあれでないとイカンとも思う。ただ、各地の博物館で、ちびっこにもっとモテモテになっておかないと、そのうち本当に〈文系〉なんていらんのちゃうかと言われそう。そんなことを思う今日この頃でした。
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 アート&アーケオロジーに興味を持っちゃった人、必見!〈滋賀県立陶芸の森〉でね、特別企画「土・祈り・イマジネーション…岡本太郎の言葉とともに」展が開催中ですよ。2015923()まで。
 ※〈7/2 17:40追記〉 8月に入ってからの方が太郎さんの展示品は増えるとの情報をお友達からいただきました。別企画の展示プログラムそのものが増えるそうです。この増える方のプログラムについては、また今月半ば頃にこのブログでご案内しますねー。それはさておき・・。


 岡本太郎さんちゅーたら、1970年の大阪万国博覧会の〈太陽の塔〉。あの不思議な造形は、縄文時代の土偶や土偶装飾付土器からのインスピレーションの賜物だったっていう話は、知る人ぞ知るお話。

 で、今回の展覧会では、太郎さんの作品そのものや、彼が撮影した〈縄文土器〉や〈弥生土器〉の写真、そしてその実物なんかをドーンと展示。あわせて、当館が昔から得意にしている〈聖霊の宿る島――パプアニューギニア〉の土器なんかも並ぶらしい。なかなか解き放たれちゃった観のある、たくさんの作品に巡り会えそうですねー。

 正直いうと、わたし、陶芸の森は久しく伺っておりませんが、今回は行ってみよう。数年前、神奈川歴史博物館であった縄文展でも、太郎さん撮影の縄文土器の写真やその実物を拝見して、随分楽しみましたけれど、今回は弥生土器もあるらしいし。どんな風に対比していたんだろう?土偶と土偶装飾付土器は、40代の私のテーマだしな、太郎さんがどんな風に感じてたのか、やっぱり気になる。

 加えて、もう1つ気になるのは、〈食い物系〉。陶芸の森には〈カフェレストラン UPcafe〉さんがくっついてます。で、展覧会期間中は、岡本太郎にちなんだメニューとして、“土・祈り・イマジネーション展”特別メニューを提供中だとか。Facebookではおいしそうな写真がいっぱい掲載されているよ。ココも行ったこと無いんで(!)、嫁さん誘って楽しんできます。

→ https://www.facebook.com/upcafe.shigaraki

 あぶない! 忘れるところでしたけど、肝心な〈滋賀県立陶芸の森〉の詳しくはコチラ→

http://www.sccp.jp/topics/%E5%9C%9F%E3%83%BB%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%E3%81%A8%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%AB/

 でね、もし行くなら午前中にこの〈陶芸の森〉見て、午後からは滋賀県立琵琶博物館へ。隕石が見られるよ。その隕石の展示の詳しくは、また明日。

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考古学における通婚圏やら移民の議論ってどうやねん?近江貝塚研9月例会(第263回)では、このあたりを検討しますよ。詳細は後日改めてアップしますが、先行して取り急ぎ日程・概要をお知らせします。是非ともカレンダーにご記入くださいね!

特集名  モノとヒトの動きを探る!2015

日時    9月26日(土)13:30

場所    滋賀県埋文センター・2階研修室

報告1 
タイトル 岐阜県域における縄文時代中期末埋甕の検討
報告者  岩永 祐貴さん(奈良大学)
 岐阜県域の埋甕に使用される土器型式の差異や内容物、埋葬形態のパターンから何が見えるか検討します。

報告2
タイトル 古代九州南部における移民集落
報告者  松崎 大嗣さん(鹿児島大学大学院)
 文献史学から「移民集落」として位置づけられている遺跡の土器を素材とする。「故地」と呼ばれている地域の土器と比較することで、移民のプロセス、在地社会へ与えた影響などを考えます。

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前回の引き続き、第260回6月例会の報告です。1本目の発表者である河本さんは、研究を体系化していくための足がかりを必死に考え、懇親会でも〈熱い闘志〉を語ってくれた、っちゅうお話しをしましたが、今日は2本目の林竜馬さんのおはなし。表題は〈縄文時代以降の森と人の移ろい―滋賀県における遺跡の花粉分析データベースの整理から―〉です。

 何度かお話ししてますが、林さん、琵琶湖博物館の学芸員さん。考古ではなく農学(京都府立大学農学部森林科学科)出身。考古学・歴史学とのお付き合いは、ビワ博に入社したここ数年のこと。スタンスは至ってニュートラルで、〈環境決定論でも人間中心主義でもない双方向の視点〉から表題のテーマを考えようとしてくれました。

 林さんが今やろうとしていることは2つ。滋賀県が今まで刊行した発掘調査報告書は2236冊+α。その全部に目を通して古生態学に関わるデータを全部抜き取りました。で、特に花粉分析結果のデータを使って縄文時代以降の森の移ろいを把握する。これが1つめ。

もう1つは、その森の移ろいと人の移ろいの時期的対応関係を整理していくこと。縄文に関しては瀬口2009、弥生~古墳前期に関しては瀬口2015との対応関係なんかを検討しようとしてくれています。

 で、問題は、どーいう対応関係が見えてくるの?と言うところ。今回の到達点は、その基本的な現象面の対比をしていくための足がかりを構築したところ。ちなみに、瀬口2009は、定住+資源利用戦略の推移を論じたもの。遺跡数の推移や立地の変化、資源利用に関する道具立ての変化なんかが、将来絡んできます。で、瀬口2015は遺跡数や集団規模の推移なんかを数量的にはっきりさせたもの。
これらがどうリンクしてくるのかを明らかにしていくなんて、考えただけでもゾクゾクするな。面白そうでしょ。今後の展開が楽しみ。

 個人的には瀬口2009や2015、そして林さんの成果に、墓の規模や墓群構成の分析なんかを加えたり、森林資源の開拓状況なんかを混ぜ込んだりしてみたい。そうすると、サーリンズ風に過少生産様式と生産強化様式への対比なんかも絡み合わせられていくだろう(瀬口2014)。あんまり頑張らない、のんびり屋の縄文人が、いつ、どんなプロセスを経ながら、野望に満ちた必死のパッチ型人種へ変貌していくのか。水田農耕論の呪縛から一部だけでも頭を解き放ちながら、考古資料と古生態学資料を使ってその実態を語ってみたい。ああ、近々それが出来るかも・・。燃えてくるぜ!

 えー、林さんの発表の話からドンドン離れていってしまいましたが、要するにそういう熱闘型の研究をしていくのに、とっても重要な基礎的報告だったと言うわけです。だから私は、質疑応答の司会を放棄して、自分が聞きたいことだけ聞いてしまいかけるほど楽しかった!

 と言うわけで、レンズの向こうに見えたモノ。・・それは熱い闘志、と言うお話しでした(?)。来年6月も、この河本・林コンビで特集を組んでくれるとのこと。ご予約承りました。みなさんも是非お楽しみに!

 成り行き上、参考文献をあげます。林さんのご紹介記事なのに、野暮なことでごめんなすって。

・瀬口眞司2009 『縄文集落の考古学――西日本における定住集落の成立と展開』昭和堂

・瀬口眞司2014 「縄文文化論の理論的基盤の整理――M.サーリンズ『石器時代の経済学』再読――」『紀要』27 公益財団法人滋賀県文化財保護協会

・瀬口眞司2015 「縄文時代~古墳時代前期の集団規模の推移――琵琶湖周辺地域における先史社会の展開過程に関する覚書(1)」『紀要』28 公益財団法人滋賀県文化財保護協会

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6月27日(土)、第260回例会が無事開催されました。参加者数は今月も17名でうち、4名が学生さん。東は岩手・千葉・富山・福井、そして京都・奈良・滋賀からのご参加でした。ご専門も、日本考古学のみならず、植生史・美術からもご参入。多様な立場から、みっちり意見交換しました。発表はいつもどおり2本立て。

 1本目は、河本純一さんのご発表。タイトルは〈縄文時代における「交流」・「地域間関係」の研究史〉。ここ数年来、河本さんは、ずっと〈胎土分析〉を重ねてきておられます。で、その射程の先にある〈地域間関係・交流〉に関する研究史の整理に挑戦。(A)これまでの縄文研究における〈地域間関係・交流〉と〈胎土分析〉の方向性、各論者の到達点、その限界を整理した上で、(B)今後の検討の余地がどこにあり、そこで繰り広げられるであろう検討がどのような意味を持ち得るのか、と言ったところへ駒を進めてくれました。

 当たり前のことですが、こういった研究史の分野も侮れない。その整理と検討は、やればやるほど錬磨されていきますよね。論文というモノが、〈論点〉から〈結論〉へ至るストーリーであるならば、その肝心なスタートである〈論点〉を磨き倒す大事な作業なのだから。そういった意味では、河本さんのご研究でも、更なる錬磨が期待されていたということ。

 で、今日は、私が強く共感を覚えたポイントだけ整理しておきますね。それは〈分析は、ただ積み重ねても成果になった気になるし、確かに貴重な成果であるけれど、気を付けないとただの羅列になってしまう〉ということ。

 分析ばっかしてると、それが目的化してしまって、何のためにその分析しているのかが見えにくくなってしまうことがありますよね。これを避けるには、明確な射程を持った研究戦略が必要。そういう意味で、(B)の部分を充実させておこう!ここがしっかりすると、課題も回路化されるし、作業の不足も見えてくる。射程も更にはっきりしてくるはず・・・。

 今回、河本さんは、その足がかりを必死に考え、我々にも考えさせて下さいました。ありがとう!更にこの領域を深め、体系的な研究を推し進めていくとのこと。懇親会では〈熱い闘志〉を語ってくれました。本拠地の大阪を遠く離れ、震災復興の発掘調査に汗を流しつつ、しっかり前を向いて、夢の実現に藻掻いていく。俺たちも伴走していくぜ。暑苦しいぐらいがちょうどいいからね。たぶん。

 という感じでした。次回は、もう一人の発表者、林竜馬さんのご発表を振り返りますね。ではでは!

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弥生研究者、特に集落・生業論やってる人、必見!私のところが運営してます〈安土城考古博物館〉。今年の夏は、「よみがえる弥生のムラ-大中の湖南遺跡 発掘五〇年-」ということで展示します。で、その関連講座として下記の(1)~(4)が開かれる、ということでご案内。

 どれもオススメなんで、個別にまた記事を書くつもり。だけど、イチオシはやっぱり(2)だな。黒崎先生の〈大中の湖南遺跡発掘の頃〉。前もこのブログでちょびっと書きましたけど、若き発掘調査技師・水野正好が率いる〈文物工作隊〉の奮闘物語が聞けるはず。

 黒崎先生いいますと、ただいまは大阪の弥生博の館長さん。奈良文化財研究所や富山大とご活躍されてこられました。その出発点の1つはこの〈文物工作隊〉。全国初の発掘調査技師として、滋賀県内の緊急発掘調査を1人で切り盛りしていた水野先生のまさに右腕として、近江国庁や大中の湖南遺跡の調査に向き合っておられました。

 平井美典さんの『藤原仲麻呂がつくった壮麗な国庁』新泉社
2010によれば、後に史跡にもなる近江国庁の緊急調査第二次調査があったのは1963年。で、実際に現地調査をキリモリされていたのが、黒崎先生。当時、立命館大学の1回生!ここポイント。いちねんせいですよ。

 高度経済成長期に突っ込んだ当時の日本の状況、黎明期の文化財保護行政の状況、水野先生が置かれた超多忙な日々などがこれだけでも透けて見えますよね。1回生が現場をガンガン切り盛り。しつこいですけど、なみの遺跡ではありませんからね。平井さんのご著書にもカラー写真がたくさん載っていますけれど、凄い遺構がたくさん。黒崎先生というか、黒崎青年の奮闘に頭が下がります。

 で、話を戻すと、大中の湖南遺跡の調査は
1965年までの3年間ですから、黒崎先生、青春まっただ中、大学1~3年生の頃です。水野先生からお聞きしていたことを踏まえますと、この遺跡でも黒崎青年が中心選手。ということで、そのあたりの思い出話を交えてのご講演になるのではと推察してます。だからイチオシのオススメ。お時間ありましたら、ぜひ、どうぞ!

    記

場 所:滋賀県立安土城考古博物館2階セミナールーム

      http://azuchi-museum.or.jp/access
時 間:毎回1330分より 
定 員:140
資料代:200
ラインナップ:
(1)725日(土)

   近江の弥生時代木製農具
   講師:阿刀弘史(滋賀県埋蔵文化財センター)
(2)82日(日)
   大中の湖南遺跡発掘の頃
   講師:黒崎直氏(大阪府立弥生文化博物館館長)
(3)88日(土)
   弥生〈都市〉論はその後どうなったか
   講師:秋山浩三氏(大阪府立弥生文化博物館副館長)
(4)95日(土)
   下之郷遺跡の環濠集落
   講師:川畑和弘氏(守山市教育委員会)

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さてさて、論文執筆の悩みを考えるシリーズの後編です。前編は〈いつ書くの?問題〉でしたが、今回は〈どこで書くの?問題〉。皆さんは、どこで書いてますか?私は〈遊動型〉。基本は朝に書く。で、必要に応じて、転々と移動しながら書き続けます。

 ちなみに、私の研究テーマの一つは〈定住論〉。遊動生活から定住生活への移行過程を資料から読み解こうとしてきました。人間ね、本格的に定住し始めたのは、たかだか1万年前ですから。それより前はずーっと移動生活。・・だからというわけではないけれど、公務でもない限り、私はあちこち移動しながら書き継いでいきます。だって、飽きちゃうんだもん。

 たとえば極端なケースでは、早起きして自宅で書いて、通勤電車の中で書いて、現場に行って作業員さんたちが来るまで書く。仕事が終わったら、今度はデパートやショッピングモールに行って書く。そんで帰宅してからまた書く、みたいな。1個所あたりの執筆時間は1時間程度だけど、足すと結構な時間になりますよね。飽きっぽいから、同じところで5時間書き続けるのは至難の業。相当追い込まれていないと出来ません。でも、あちこち場所を変えながらだと気が楽になる。

 私のおススメはデパート。よく奥の方とかにベンチがあるでしょ。誰も寄りつかないような。ああいうところ、とってもいい。2階が飽きたら、3階に行って、限界が来たら4階へ、みたいな。それから平日のショッピングモールのフードコート。某県某市の●●●モールは最高!窓からは、琵琶湖と比叡山に夕陽がセットになんかなっちゃったりして、とっても癒される。マクドとミスドがあるから、コーヒーとドーナツやらを買ってきて、もぐもぐしながら書き始めます。

 だから、必需品はちっこいパソコンとipod。特にipodは自分の世界に入り込んでいくのにとっても便利(スマホでもいいんでしょうけど、まだ持ってないからね)。いつも決まったアルバムを聴きながら、自ら引きずり込もうとすることが多いかも。ちびっ子が隣で少々だだをこねてても、これならセーフ。

 でもね、デパートやショッピングモールでは、十分すいているときだけお邪魔してます。混雑しかけたら、すぐ退散。お店とか他のお客さんに迷惑かけたら、〈店内ではパソコンご遠慮下さい〉みたいな話にすぐなる。結局、自分たちが利用しにくくなるだけ。環境をなるべく荒らさないのが正しい〈ノマディック〉。なんちって。

 ところで、このブログによくコメントしてくれるTomoさんは、移動時間が〈カキどころ〉だそうです。――“私は新幹線とか飛行機の待ち時間とか移動中に書くことが多いです。意外と手元に資料がない状況のほうが筆が進みます。あとで資料を確認するようにすれば効率的だと思います。”(20150626日コメント)

 ・・同感です。あれこれ浮気せずに、ダーッと書けていくのが、移動中の執筆のメリットの1つかもねー。皆さんもいろんな秘策や工夫がおありでしょう。もし、よろしかったらコメントなんかでお教え下さいね。参考にさせてください!ではではー。

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みなさんは、いつも、いつ論文を書いてますか?先日、職場の若い後輩が、この質問を私にしてくれました。これって、実は近江貝塚研究会の懇親会で3ヶ月に1回は出てくる頻出話題。それだけ、みんな苦労して悩んでいるテーマなんですよね。今回は、この話をちょびっとしてみます。

 人それぞれですし、残業の多い勤務だったときはムリでしたが、わたしの場合は〈朝〉がゴールデンタイム。1時間くらい使っています。夕方も多いのですけど、これは2番手。一番多いのはやっぱり朝。子供が小さいときは、夜10時に一緒に布団に入り、朝4時に起き出してました。

 これが良いのは、〈新鮮な頭で書き物が出来る〉こと。同じ1時間でも密度が断然違う気がする。

 毎日、現場をしたり、いろいろ仕事をして帰ると、もうヘトヘトですよね。冒頭に挙げた若い後輩もそうらしい。晩飯喰ったら、もう何もする気になれない。私も実はそのタイプ。1日全力で頑張ったら、もうクタクタだよ夜は。もう疲れを取ることしか出来ません。

 なら、早く寝てしまったほうがよいのでは・・というのが朝型人間の発想。ご飯を食べてから2時間は横にならない方が胃腸には良いらしい。なので、今は9時には食べ終わり、1112時には寝てしまいます。風呂に入ったり、メールの返信なんかしてたらちょうど良い感じこの時間に。で、5時半に起き出して、1時間ほど書き物をする。足りない分は夕方に1時間ほど補足する。

 子供さんが小さいなら、尚更かも。お仕事の都合にもよりますが、一緒に風呂に入って寝てしまう。奥さんにも喜ばれるかも。子供もいつまでも一緒に入ってくれない。今のうちですよー。

 問題は眠気覚ましですよね。折角、早起きしても、眠いと進まないもんね。元から朝に強いタイプだったわけではないので、私も最初は苦労しました。4時に起きていたころは、あっついコーヒーと、アーモンド入りのチョコレートを口にしてから始めてた。カフェインと糖分がポイントですよね。強制的に目を開けさせます。で、もう一つのポイントは、毎日同じ時間に起きることかも。体が慣れていってくれる気がします。

 合う・合わないがあるので、あくまで瀬口例ですが、もし興味があって可能な仕事のパターンなら1度試してみてください。貝塚研のいろんな学生さんで効果は実証済み。ということで、今回はこれでおしまい。次回は、ほなどこで書くんよ?と言う話の予定。ではではまたー!

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さて、近江貝塚研のルーツを探る(後編)です。前編では、粟津湖底遺跡の報告書作成員会が、あほな私には無茶くちゃ厳しくすぎて、それを何とかすべく、涙まみれに始めたことを報告しましたけれど、貝塚研をはじめるきっかけは、もう一つ別にありました。恩師・水野正好先生の〈文物工作隊〉がその原型です。

 水野先生が、日本初の文化財調査技師として昭和37年に滋賀県教育委員会へ入ったお話は先般いたしました。→http://koukogaku.blog.jp/archives/1031768246.html

 で、ちょうど、そのころ戦後日本はどんどん国土の開発に着手して、あちこちで緊急発掘せなあかん状態に。若き水野先生、一人ではどうにもならんので、私的に組織を作りました。それが〈文物工作隊〉。

 先生、カリスマだった(註:先生、ご自分で言ってました)ので、関西の大学生を無茶無茶魅了しておられました。で、この学生さん達を上手に組織化したんですねー。同時並行で県内に3つほど現場をいつももっておられましたので、現場AにN君、現場BにM君、現場CにK君という具合に配置して任せる。で、先生は朝から県庁に行って、事務仕事して、電車とバスを乗り継いで、各地の現場に顔を出していく。時代劇の八丁堀の旦那みたいですねー。

 で、夜になると、学生諸君が現場に戻ってきて、報告会。現場のおばちゃんたちに貰ったミカンやリンゴ何かをみんなで持ち帰って、ワイワイガヤガヤ楽しく調査成果を吟味しておられたそうです。先生ご自身、〈あの頃楽しかったわ―、なにしてもおもろかった。〉昨年秋にもそう述懐しておられましたので、相当充実してたようです。

 と、ここまでは今でもよくある風景かも。でもね、尋常でないのはここから。この〈文物工作隊〉出身者が、この後各地の文化財保護行政や考古学研究をガンガン引っ張っていく。その後、大学の先生になった方を思いつくまま数えても、水野先生ご本人だけでなく、西谷正先生、丸山竜平先生、黒崎直先生など多士済々。念のため確認しますけど、大学の研究室じゃありませんからね、ただの私的なグループ。30才前後の地方の県職員が作ってた〈文物工作隊〉。

 ポイントは、互いにのびのび伸びていくところですよね。
わたし、この話を初めて聞いたのが大学4年生の時。大学に先生の書庫があって、そこの本の整理をしていた時に、先生がひょっこり現れて、ニコニコ昔話を聞かせてくださった中の一挿話。だけど、これに無茶苦茶憧れてしまってねー。だって、とっても楽しそう。しかも、みんながグングン伸びていく。就職したら、いつかこんなの自分でもやってみたいなー、と強く思った夏の日の午後でした。

 で、数年後、げっそり・しょんぼりの中でしたけど、水野先生の〈文物工作隊〉を思い出し、何とか前を向き直すために始めたのが〈近江貝塚研〉。先生みたいにはいきませんが、皆で伸びていってみよー、みたいなところは大事にしていきたいと切に想います。・・思い出話はこの辺でおしまい。

 お天気が心配ですけれど、今週末の第260回例会もそんな感じで、元気にGO!

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今回は近江貝塚研の〈初心〉に関わる、ゆる系のお話。いまわたしは粟津湖底遺跡第3貝塚(大津市・縄文時代中期前葉)のことを執筆中。その上、粟津湖底遺跡の調査史を語る上で欠かすことの出来ない松井章先生が先日お亡くなりに・・・。そんなこんなで、当時(19911996年)を深くふかく思い出す日々が続いております。で、近江貝塚研の〈初心〉も改めて思い出し、ここで整理してみることを思い立った次第・・。ちょっとおつきあいいただきます。

 粟津湖底遺跡は、琵琶湖の底という〈超〉低湿地に残された貝塚。おかげで動物性の食料残滓だけでなく、植物性の食料残滓も豊富に良好な状態で遺存しておりました。そんな遺跡はそうそうありませんので、全国的にも注目を浴び、その調査と報告書作成に関しまして〈指導委員会〉というものが設けられておりました。

 これは、もちろん財団法人滋賀県文化財保護協会が公的に設けた委員会。で、この〈指導委員会〉こそが、近江貝塚研究会を生み出してくれた素地の1つだと言うのが今回のお話し。

 この委員会、年に2~3回開催されておりました。報告書は1992年度から4年間をかけて作成する計画だったので、10回ほど開催されたことになります。で、毎回、作業の進捗、成果、その後の方針が厳しくチェックされ、指導を受けておりました。私はこの委員会が本当に辛かった(泣)。

 念のために明記しておきますけど、涙の原因は委員の先生方にはございません。明らかに全て私自身にございます。参考までにお名前を列記しますと、京都大学教授の小野山節先生が委員長、大阪市立自然史博物館館長の那須孝梯先生、奈良国立文化財研究所の松井章先生、国立歴史民俗博物館の西本豊弘先生に、辻誠一郎先生、流通科学大学の南木睦彦先生など、動物考古学や植生史学、第四紀学などの世界において最先端で活躍しておられる先生ばかり。豪華でしょう。

 どの先生も相当ご多忙だったのですけれど、会議には必ず皆さん出席してくださっておりました。で、私らの要領を得ない報告に対して匙を投げることなく耳を傾け、結果として湯気が出るほど本気で叱る・・の繰り返し。いま思うとまさに感動モノ。まだ二〇代前半の私たち(私の他に、今江さんと中川さんという後輩職員がおりました)を本気で叩き上げ、そしてその若い調査員達が作ろうとしている報告書を本気で磨きあげようとして下さっていたことを痛感しております。

 とはいえね、叱られる方はダメなんですよねー、ほんとに辛さだけが募っておりました。2万数千箱という膨大な資料を前に先が見えず、委員会の度に実力不足を思い知らされてばかり。叱られすぎて、前を向くのに少しは残しておきたい自分を信じる勇気なんかもどっかに飛んで行ってしまうし、そんなこんなでションボリしてたわけです。全部自分たちが悪いんですけれど。

 で、なんとか活路を開くために始めたのが〈近江貝塚研〉。まずは基本に戻ろうというわけで、各地の貝塚や低湿地遺跡の報告書そのものを徹底的に分析し直しました。何が、どのように調査され、それがどのような形で報告されているのか?昼間の仕事を終えた後、書庫から報告書を取り出してきては記載内容を洗い出し、レポートにまとめることからやり直したわけです。

 その成果を発表し合ったのが199311月。仕事を終えた事務所に年若の三人だけで残って、おのおのが調べ上げた内容を発表しあいました。これこそが〈近江貝塚研究会〉第1回。この発表はどれもたどたどしいものだったんですけれど、同時になんだか霧が晴れていくような気も致しました。3人は先生方に叱られるのがやっぱり嫌で仕方がなかった。とても悔しくて、もっと知恵や情報が欲しくてたまらなかった。それが少し解決できそうだと言うことで、霧が晴れていくような気がしたんだと思います。

 で、このあとすぐに京大にいた内山純蔵さんや、千葉県文化財センターで貝塚をたくさん分析しておられた西野雅人さんにご相談。奈良大や立命、同志社、京大の学生さんたちにも声を掛け、毎月一回の勉強会をスタートしていったというわけです。

 今でこそ、なんだか分かったような口をきいておりますけど、所詮はこんなもの。泣きべそかきながら始めたことや、前を向く勇気を取り戻すため、後先考えずに思い切って始めたこと、たどたどしかったけれど、とても真剣だったことなんかを忘れたら、もうアウト!もし、少しでもそうなっていたら、後ろから思い切りシバいて下さいね。出直します。

 と言うわけですが、もう一つのルーツは、我が恩師・水野正好さんの思い出に重なります。この話は後編と言うことで。今日はこれでおしまい。

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